2019年7月 9日 (火)

梅雨明けはいつになるやら

 こんにちは。

 久々に投稿します。思いつきでしますので、いつになるかわからないところです。

 この雨でうちの「山ノさむらい」いわゆる保育林産班は木材が出せないところです。下刈りにせっせと行ってますが、すでに10日ほどになりそろそろ飽きてきているところです。と言うか、体の方もかなりバテてきているようです。まだ、炎天下の中での下刈りではないのですが、高齢の作業者が嫌がるような急傾斜地、広面積の場所があてがわれているのも飽きてきているところでしょうか。

 さて、昨日森林総合研究所九州支所の方が見えられました。目的は、杉のルーツを探ることでした。熊本は江戸時代には細川藩が熊本を支配していました。もちろん、小国も熊本になりますので、細川藩に属してました。当時、参勤交代が頻繁に行われていたころに熊本城から菊陽~大津~二重峠を上下~阿蘇内牧~阿蘇坂梨村~滝室坂~阿蘇外輪山を超え~阿蘇波野村~豊後の久住・野津原を経て鶴崎港に行き、そこから瀬戸内海を船で渡ったと言われています。その道中に杉並木があったようです。菊池郡菊陽町から菊池郡大津町の区間であり1里木(約4キロ)~6里木まででした。

 本題はここからですが、その杉並木は遡る事加藤清正の支配化のとき熊本城を建造する際に普請材として使われたのではないかとの事で、当初その苗木は鹿児島のヤクシマから来たのではないと文献等から記載があったらしいので、そのルーツを探すため実際にDNA鑑定を森林総合研究所がしたようです。50本から採取しましたが、どうも全種類品種が違うみたいです。さらにその中にはヤクシマからはなかったらしいです。そこで、近隣の林業地である小国町の杉に白羽の矢が立ったわけです。小国も文献で、250年前に藩主細川重賢の命令で1件に25本の杉苗を配布し植えさせたとのことです。当時は、藩有林として管理していましたので、地元の御山支配役の北里安兵衛がその世話人となっていました。そのようなことから、菊陽の杉並木も200年前の1,800年に植林されたと言われていますので、ひょっとしたら小国がその50年前に植林した杉木から菊陽の杉並木に挿し木(穂先を取った部分)をしたのではないかと一説として考え、DNA鑑定をする価値があると思ったのでしょう。小国の北里氏が所有している山林が推定250年に杉林がありますのでそこで枝葉を採取しました。ついでに、小国両神社(阿蘇神社の分家)にも推定200年の杉がありましたので、同じく枝葉を採取しております。まあ、菊陽の杉並木のDNAと一致する可能性は薄いと思いますが、その苗がどこから来たと言うのはわかりますのとこことでしたので、それはそれで楽しみです。因みに明治に入っては、吉野林業から最初に種を植えた記録はありますが、江戸時代の種はどこから来たのかはわからないところでした。

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2019年5月28日 (火)

山登りの季節です。

こんにちは。

5月ももうすぐ終わろうとしています。田植えも最盛期を迎えていますが、どうもこのところの晴れの

天気で田の水がなく農家も困ったいる方がいるようです。雨ごいでもしないと降らないでしょうか。

去る5月26日におやじたち3名で小国富士と呼ばれる涌蓋山(1,499m)の登山にチャレンジしました。

目的は、別に知人が夜空の星を写真として作品にしており、山の星空を撮りたいとの事で付き合いました。

午後2時に登頂しましたが、到底山頂までは体力が持たないと皆が言い出し、手前のみそこぶし山(1,293m)

までで断念しました。ただ、頂上での景色は素晴らしく下見が無事終了しました。夕方からキャンプの準備

をし、タープとテントを張ろうとみんなで協力しながらやっていたろころ、タープのペグがない、テント1つの

骨組みがないなど、30年ぶりのキャンプで準備が出来てませんでした。夕方から1名が参加し、BBQは楽しく

飲んで、食べてたわいもない話で盛り上がりました。写真家の方は夜に起きて山に登ったようですが、薄雲が

かかり、満天の星は見れないことから断念したようです。

ただ、写真家の方もまたキャンプしてリベンジしようと言うことになり、他の方もキャンプの楽しさをもう一度

味わいたいとのことで、もう一回来ようと言うことになり、別れました。

最後に、山の担い手の件で一言。今年4月に19歳の男子通称「旺ちゃん」が我が組合の保育林産班に入り、山の担い手

で頑張っています。これから、緑の雇用研修やOJTの先輩との研修で一人前の「山ノさむらい」になってくれる

ことを祈っています。インスタ(asooguniforestworker)でアップしていますので良かったら見てください。

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2019年3月27日 (水)

もうすぐ、4月に

 こんにちは。最近は、春の心地よい風と桜の開花も始まり、過ごしやすい季節となってきました。ただ、朝晩は冷え込んでいますので、体調管理には十分に気を付けるようにしたいものです。学校、行政での人事も確定しており、引越しや新天地での準備も大変な時期にもなっています。組合では、事業の検査や、報告書の提出で担当はてんやわんやでしょうか。また、4月21日に町長選と町議会選が予定されており、何かと気ぜわしくなっているところです。さて、先週の土曜日は鹿の駆除(網にかかっていて処分した)を見に行きました。前日に造林補助の検査で鹿ネットに雄の2歳ぐらいの鹿が網に角が絡まって暴れていましたので、猟友会の猟師さんが来られサバイバルナイフで頸動脈を一突き、あっと言うまの出来事で刺殺し、命の尊さの場面を知ることができました。さて、当組合では3月に小国杉の板の厚さ5ミリをレーザーで焼き加工する機械を購入しました。これにより、木材の加工したオリジナルの商品が作れるようになりました。これから担当の腕の見せ所でしょうか。


 なにはともあれ、来週からは19歳の若手が伐木搬出の業務に行きます。(配置転換)仲間の先輩から指導され、もまれて育っていくことになりますので、楽しみでもあり、不安でもあるところです。続いてほし~いと願うところです。😃


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2019年3月 4日 (月)

もう、春でしょう。

こんにちは。
今年は、小国も雪が降らず2月から雨の日が続いています。すでに、梅も咲き始め、少しづつですが、あったかくなっています。ただ、空気は乾燥しているので、風邪は引きやすいところでしょうか。
 常々思っていたことですが、林業担い手の減少に歯止めがかからない、高齢化でやめて行く方は仕方ないとしても、代わりの若者で担い手になろうと言う方がいない。確かに仕事は地味で夏場は暑いし、汗はかくし、その対価に見合うお金をもらっているかと言えば疑問視がわく。ただ、手入れした山林を作り上げた時の達成感、高揚感はなんとも言えないと担い手の方は言ってます。特に間伐をして光が差し込み、風がとおる山林となったときにそのような気分になるようです。その思いを言葉で伝える事だけでは難しいので、このたびフォレストワーカーのプロモーションビデオを作ろうと思い至ったわけです。基本、プロの制作会社に依頼しました。ただ、動画だけではおとなしすぎて、これを見た人が元気が出て、担い手がかっこよいとか、やりがいがある仕事だと興味がわくような動画にしたいと思っていたところです。そこで、制作会社に誰か、オリジナル曲を作ってくれる方がいないかとお願いしたところ、知り合いに熊本市出身のシンガーソングライターの進藤久明さんがいると教えていただき、歌を作ってもらうように依頼しました。出来上がった曲が「山ノさむらい」でロック調のテンポ良い曲になっていました。歌詞は、進藤さんが小国に来て、当組合の現業職員と2回ほど山の懇談の場で色々な話をしてつくり書き上げています。3月1日にいよいよ出来上がった、PVと歌のお披露目をいたしました。会場には約100人の方が訪れ、ライブでは相当盛り上がりました。進藤さんもノリノリでエレキのピックまで客席に投げてました。マネージャーに聴いたところ、年に数回しかピック投げはしないとのことでした。
また、山の担い手による談義も行い、面白いエピソードやこだわりの道具、感動した話など5名の談義者がそれぞれの思いでしゃべっていました。服装のこだわり、ヘルメットのこだわり、山で突然イノシシにあったこと、山で突然トイレに行きたくなり、葉っぱで葺いた事など、マニアックな話が出てました。林業をかじっている方は専門用語も少しはわかると思いますが、まったくの素人はどこまで話が判ったのでしょうか。なにはともあれ、阿蘇郡市の担い手も巻き込んでやれたので、良かったと思いました。また、違った手法で林業のPRをしたいと思います。お楽しみに~。
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2018年11月16日 (金)

もうすぐ師走

こんにちは。

小国も最近の気温は最低気温5度程度で大霜となったりしています。紅葉の葉も落ち始め、枝がむき出しになった木々に物欲しそうに「ひよどり」「もず」が囀っています。

さて、小国町は昔から色々な苗字の方が外部からはいってきていました。室町時代に上益城郡矢部町より矢部氏が下城地区に来て城をかまえ城主となり数代に亘り勢力を維持していました。加藤清正時代に城を奪われて豊後に逃れ、血統は静岡県浜松に生熊氏、群馬県伊勢崎市に下城氏、そして小国の下城氏と分かれた。矢部氏に従ってついて来た家臣に阿南氏、穴見氏、西氏、矢羽田氏がいるが子孫も現在まで現存している。また、室原氏は楠家の末裔と称し、大分県上津江町に長く住み、室町時代に小国に来ている。桃山時代には、長谷部氏も上津江町で城主であり小国の上田江古尾地区に来ている。また、豊前宇佐神宮神官の末裔だった辛島氏は西里岳ノ湯に永住し、同士の麻生氏は南小国町の中原に永住している。松﨑氏も宮原(中心部)に多く阿蘇市より来ている。安土桃山時代に豊後の大友氏が没落し、大友の臣が浪人となり、石松氏、坂本氏、堤氏、波多野氏、有住氏などが大分県日田市より来ている。さらに、大分県玖珠郡より後藤氏、穴井氏、豊後より、佐藤氏、田北氏、奴留湯氏等が西里岳ノ湯とその周辺に来ている。この方たちは後に農民や商人となったものが多い。因みに、私も穴井ですが、この穴井とは系統が違います。(だからなんでしょうか。)上田地区には橋本氏が多いが関ケ原の戦いで大阪方として敗れた森孫兵衛忠隆が流浪して小国に来て橋本氏になったと言われている。大分県竹田市より笹原氏、久野氏が来ており、宮原地区に現存んしている。さらに、江戸時代から明治にかけて日田市より日隈氏、月隈氏、末松氏(今は小国にはいない)諌山氏、出口氏、財津氏などが来ている。

小国の地名を苗字にした方で土田(はんた)氏、山川氏、田代氏、長田氏、明里(あかり)氏、田原氏、小薮氏、杉平氏、簗瀬氏、市原氏などがある。このように、多くの方が町外から移住し、小国地域の1時代を築き、現在も子孫に受け継いでいる。

因みに、私は53年前は大分県上津江町県境の川沿い(下釜ダム下流)に住んでおり、今の黒渕蓬莱団地(くろぶちほうらいだんち)に移住してきました。たぶん、昔は上津江町から来たよそもんだったと思われます。

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   哀愁の銀杏           11月8日の小国郷優良材市の様子



2018年11月 1日 (木)

霜月となりました。

こんにちは。今年も残すところ60日となり、朝晩は冷え込んでいます。小国ならではの気候となったでしょうか。山々の木々も色づき始め、紅葉の見ごろもあと数日となりました。下城滝のそばにある大イチョウ(推定800年)もライトアップされ、見ごろとなっています。

さて、以前お話ししました小国の歴史の中で北里氏は阿蘇氏領域支配体制の中で、代官的役職についていました。その後、豊後の大友氏の勢力が肥後国内に及ぶようになり、小国内にも攻め込んでいます。1580年代には大友氏の勢力が激しく、阿蘇氏を残しつつも、北里氏は実質大友氏の支配下に属することになる。戦国時代にはいり、薩摩の島津氏が肥後の国に攻め入り、小国郷にも勢力を伸ばしてきました。そのような中、当時25代当主の北里為義伯耆守(きたざとためよしほうきのかみ)は阿蘇家の家督争いで兄と弟が争う中で為義は弟の惟義につきましたが、兄に敗れ宮崎の日向の諸塚村に逃亡しました。追撃を受け主従27名と戦士しております。その諸塚村の甲斐家が栄誉をたたえお墓をつくり祭っていました。小国でもお墓があり、毎年子孫数十名が集まり祭典を行っています。そのすぐそばに御神木があり、昨年雷にあったために伐倒することになりました。

大径木の伐倒名人の河津明夫さんが息子と一緒に午前10時より伐倒を開始し、約15分後に倒れました。伐り後はしっとりと湿っており、色や目詰まりは素晴らしいものでした。残念ながら、中心から芯に割れがはいっていました。とほほ・・・

ただ、先祖代々から守り継がれてきた杉の大木を伐るのは、何とも神聖な気持ちがして新たな命が生まれてくるかな~と感じました。11月8日の優良材市で販売することになります。入札で誰が落札するのか楽しみです。

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2018年8月27日 (月)

処暑も過ぎ



  こんにちは。

 毎日、うだるような暑さが続いていますが、処暑が過ぎ幾分涼しさが来たような気がします。近くの道の駅(日田、菊池、玖珠)をのぞいてみると、ブドウや梨、栗などの秋の果物が並んで来ています。小国は果実がほとんど無いんですね。米、高冷地野菜などはあるんですけどね。小国で果実を栽培した場合、寒暖差があるので甘味があり、おいしい果実が取れると思うんですけど。今日は、杉の大材を伐る現場に行ってきました。目的は、今年当組合の現場職員(保育林産班)のPV(プロモーションビデオ)を制作するために1シーンとして制作会社の方を連れて撮影に行きました。100年生ぐらいの大材を2名の職員により機械でひっぱって伐り倒すシーンは迫力満点でした。長さが35mあり、倒れる瞬間は風圧で近くの葉や枝が飛び散っていました。私も体でその衝撃を感じたところです。チェンソーは、バーの長さが90cmで排気量が120㏄ある超大型のチェンソーを使用してました。大材を伐倒するのには、かなり危険がおよぶところであり、熟練した技術や経験、伐倒方法が判らなければ命にかかわることになります。これから、11月にかけて色々な撮影場所で作業シーンを撮影します。来年2月に出来上がり、YouTubeにも投稿します。全国的にも林業担い手が減少している中、森林資源は成長し続けています。最近は、林業機械を駆使しての作業システムに変わって来ていますが、伐倒はどうしても人力でやらなければならないところです。林業の仕事のやりがい、達成感、仲間との信頼関係などを判ってもらうために、小国から発信させたいと思います。

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2018年7月20日 (金)

猛暑の到来!

こんにちは。

久しぶりに投稿します。全国的に猛暑日が続いています。いかがお過ごしでしょうか?

こう暑いと山の作業も思うようにはかどりません。作業者は暑さとの戦いでしょうか。

当組合の作業者も雨が降らないので、ほとんど休む暇がない様です。標高900mの

湧田山(わいたさん)のふもとの伐採を保育林産班がやっています。ハーベスタ

2台(伐倒と玉伐りと枝払い)、フォワーダ(4トン積みの運搬車)、スイングヤーダ(簡易な

線を張って引き寄せ)の4台の機械で5名体制で15haの山林です。杉は、ほとんどが

バイオマス発電用の材料として直送されます。伐採後は、山桜と山もみじを植林し、災害

と景観に配慮した森にします。小国の町が一望でき、眺めが良いところで、国有林も隣接

しており、水も豊富です。林業担い手も全国的に減少しており、小国も喫緊の問題で何と

か、山の魅力、山仕事のやりがい(対価も伴うように)、ステータス性を判ってもらえるよう

な事をしたいと思っています。それには、受入れ側の本気度が必要ですし、地域の方と

の連携、理解度が必要だと思います。

杉の成長は止まりませんし、所有者の世代交代も始まっています。組合の役割りは年々

大きくなって来ますので、これからの進み方が重要なのかなと思います。

標高450mの小国町、熊本県の最北端、大分県に囲まれこれまで小さな国として生き

延びて来ました。先人たちの知恵と勇気、恵まれた豊かな大地があったからこそここまで

来れたのだと思います。小国は寒い、涼しいと言うイメージでしたが、30℃を越しエアコン

も必需品となり、高齢者は増え、猪、鹿も増え、川鵜も増え、耕作放棄地は増え、増え増え

づくしですが、人口は減って、担い手も減って小国もどうなるのでしょうかね~。

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2018年4月 3日 (火)

桜満開の小国

こんにちは。久しぶりに、投稿します。

小国でも、ここ数日前から桜が一気に先はじめ、本日が見ごろでしょうか。既に、熊本市内は散っており、1週間遅れで満開です。(o^-^o) 3月前半までは、気温が上がらない状況でした。さて、昔の小国の苗字の付け方は戸籍簿で詳細調べて統計を取ってみると、藩士や郷史であった家の苗字が多かった。他地域より、小国に来て、先住の小国人と一つになって次第に子孫が増えている。平安時代には、小国の支配者となった源氏の綿貫氏はのちに北郷氏(のちに北里)となり、桜尾城主~山野城主~石櫃城主と代々受け継がれ、細川藩時代では、禄高250石の領地在宅を命じられていた。また、鎌倉時代に北条氏が支配していた頃、北条定宗、隋時の家来として下向して来た河津氏、児玉氏、武田氏がいる。いずれも名家あり、特に河津氏は子孫も多く、中でも小国町長、全国町村会長にもなった河津寅雄氏は多くの功績を小国に残している。室原氏は、楠正成の末裔として、大分県の上津江村から室町時代に小国に来ている。その名残りが見られるのが、黒渕に住んでいる室原氏宅は200年の旧家であり、一本槍も飾られている。橋本氏は、関ケ原で敗れた森孫兵衛忠隆が流浪し、小国に来て後に橋本氏になったと言われる。大分県の玖珠郡、日田市からも多くの方が来ており、子孫繁栄している。更に、小国の地名を苗字としたものも多く、土田(はんた)山川、田代、長田、明里(あかり)、などがある。ちなみに小国の苗字で多い順としては、佐藤、河津、北里、穴井(あない)となっている。ただ、上位3位までは、名家もあり、文化人、功績を残した方も多いが穴井はほとんど聞いたことがない・・・う~ん

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             鍋ヶ滝(なべがたき)             河津桜

2018年2月 5日 (月)

立春と言えども

 こんにちは。明けてからもこの寒さが続いています。2月の立春を過ぎても日中でもマイナス2度となっており、いつ春が来るのやら。おまけに灯油や重油は値上がりして、生活は益々経費がかさむ状態です。木材も日陰の公道も雪があり、シャーベット状態の道路が多く、まだまだトラックが入れない箇所があります。29年度の間伐の補助金の予算も消化する時期で追い込みをかけていますが、中々作業がはかどらないのが実情です。

 さて、北里氏系譜によると初代信義から29代の永義までは1代での流れでありましたが、30代の政義から総領家と庶子家に分かれております。いわゆる武家と庄屋とに分かれたことになります。政義は加藤家に仕えており、後に細川藩忠利に末代では仕えることになります。現在の総領家は南小国の田の原地区にその末裔がおられます。庶子家には、弟の惟経(これつね)が家督を継ぎ、初代庶子家に惟宣(これのり)がなり、14代で現在も家督が繋がれております。途中、8代の北里元義で分家に細菌医学学者で北里大学の先駆者でもある北里柴三郎氏がこの流れの家督を継いでいました。また、惟経の五男であった惟昔(これしゃく?)の末裔に小国杉の篤林家の一人として名前出ています北里栄喜さんがおられます。こうしてみると、北里一族の末裔は、分野ごとに分かれており、断絶した家もありますが、現在も小国町内で活躍している方が大勢いらっしゃいます。

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          雪の涌蓋山                      どや顔の河津さん

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