梅雨明けはいつになるやら
こんにちは。
久々に投稿します。思いつきでしますので、いつになるかわからないところです。
この雨でうちの「山ノさむらい」いわゆる保育林産班は木材が出せないところです。下刈りにせっせと行ってますが、すでに10日ほどになりそろそろ飽きてきているところです。と言うか、体の方もかなりバテてきているようです。まだ、炎天下の中での下刈りではないのですが、高齢の作業者が嫌がるような急傾斜地、広面積の場所があてがわれているのも飽きてきているところでしょうか。
さて、昨日森林総合研究所九州支所の方が見えられました。目的は、杉のルーツを探ることでした。熊本は江戸時代には細川藩が熊本を支配していました。もちろん、小国も熊本になりますので、細川藩に属してました。当時、参勤交代が頻繁に行われていたころに熊本城から菊陽~大津~二重峠を上下~阿蘇内牧~阿蘇坂梨村~滝室坂~阿蘇外輪山を超え~阿蘇波野村~豊後の久住・野津原を経て鶴崎港に行き、そこから瀬戸内海を船で渡ったと言われています。その道中に杉並木があったようです。菊池郡菊陽町から菊池郡大津町の区間であり1里木(約4キロ)~6里木まででした。
本題はここからですが、その杉並木は遡る事加藤清正の支配化のとき熊本城を建造する際に普請材として使われたのではないかとの事で、当初その苗木は鹿児島のヤクシマから来たのではないと文献等から記載があったらしいので、そのルーツを探すため実際にDNA鑑定を森林総合研究所がしたようです。50本から採取しましたが、どうも全種類品種が違うみたいです。さらにその中にはヤクシマからはなかったらしいです。そこで、近隣の林業地である小国町の杉に白羽の矢が立ったわけです。小国も文献で、250年前に藩主細川重賢の命令で1件に25本の杉苗を配布し植えさせたとのことです。当時は、藩有林として管理していましたので、地元の御山支配役の北里安兵衛がその世話人となっていました。そのようなことから、菊陽の杉並木も200年前の1,800年に植林されたと言われていますので、ひょっとしたら小国がその50年前に植林した杉木から菊陽の杉並木に挿し木(穂先を取った部分)をしたのではないかと一説として考え、DNA鑑定をする価値があると思ったのでしょう。小国の北里氏が所有している山林が推定250年に杉林がありますのでそこで枝葉を採取しました。ついでに、小国両神社(阿蘇神社の分家)にも推定200年の杉がありましたので、同じく枝葉を採取しております。まあ、菊陽の杉並木のDNAと一致する可能性は薄いと思いますが、その苗がどこから来たと言うのはわかりますのとこことでしたので、それはそれで楽しみです。因みに明治に入っては、吉野林業から最初に種を植えた記録はありますが、江戸時代の種はどこから来たのかはわからないところでした。