« 豪雨による甚大な被害 | トップページ | 立秋とは言ったものの。いやはや、この暑さは。 »

2017年7月31日 (月)

大暑になりました。

こんにちは。梅雨も明けの昼間の猛暑と熱帯夜が続いています。小国でも夜の気温は、30度となっています。さらに、湿気も多いことから余計に暑く感じるところです。ひぐらしが鳴きはじめると、そろそろ涼しくなるのですが、まだクマセミやアブラゼミが鳴き続けています。

組合の現業職員もこの暑さでかなり、ばてばてだと感じています。頑張ってほしいものです。怪我や熱中症が心配です。

さて、小国の名前の由来も様々な説がありましたが、昔から続いている農林業にも通ずるところかもしれません。平安時代の小国はどうであったか、小国に来たと言われる北里氏の祖先は綿貫次郎左衛門信義であり、幼名は幸鶴丸と言った。源頼親の五男で豊後に60町、小国に240町の土地を授けられた。その日が4月1日であったので、綿貫と称したと言う。1029年のことである。幸鶴丸がのちの小国の総庄屋である北里氏の総本家となるのである。当時の国中では、藤原氏が京都と中央政府の地位を独占し、皇族でさえ地方に追いやられていた。皇族の中にも平氏、源氏の姓を受け、地方に散らばり、国司として土着し、武士になったものも多くいる。小国でも豪族が入り乱れていた。源氏と平氏の勢力争いでは、源氏がやぶれ、再興を図るため源義朝は源氏再興の意図から、諸国の源一族を呼び京都に招いた。綿貫光義も召集に応じ、上京したが、敗れている。のち、九州に帰り、豊後の緒方氏を頼った。平氏の追撃をさけるためであったと思われる。平氏の権勢が盛んになると、地方の武士もそれにならって行った。京都では、平氏の横暴ぶりが皇族や公家の反乱を招き、以仁王は、源氏氏に令旨を下し、頼朝、木曾義仲、その他の武士が挙兵した。九州でも、阿蘇氏、菊池氏、緒方氏、木原氏が反平氏として立ち上がった。しかし、筑後守平貞能が菊池を攻めて菊池氏は下った。ただ、平清盛が病死したのちは、勢力が弱まり、ついには長門檀の浦で滅亡した。当時の小国は、京都から葉室修理太夫善保が下向して小国に来ている。北方の固めとして小国西原城に居たと伝えられ、平氏の荘園(農地)の地頭として下向したのではないか。その後、鎌倉幕府となり、葉室氏は鎌倉の御家人になったと考えられる。のちに幕府は阿蘇氏の総領家を圧えるために北条氏が地頭となったので、葉室氏が御家人として管理したのではないかと考えられる。ただ、これは推測である。

つづく・・・

« 豪雨による甚大な被害 | トップページ | 立秋とは言ったものの。いやはや、この暑さは。 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1954349/71294302

この記事へのトラックバック一覧です: 大暑になりました。:

« 豪雨による甚大な被害 | トップページ | 立秋とは言ったものの。いやはや、この暑さは。 »

フォト
無料ブログはココログ
2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30